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父との会話‥、足す前に、引く前に

先日、父と話していると、昔の学校の話になりました。

父は1951年生まれで、小倉の街中にある中学校に通っていました。

当時は、一クラス55人くらいいたそう。

しかも一学年に15クラスとか20クラスくらいあった。

単純に考えると、一学年だけで800人から1000人近くいるような学校です。

今とそれほど変わらない広さの教室に55人が入って、ぎゅうぎゅうになりながら授業を受けていたそうです。

その話を聞いて、僕は最初、

「それだけいたら、一人くらい学校をサボってもわからないんじゃない?」

と思いました。

でも、ちゃんとバレたらしい。

55人いても、先生は誰が来ていて、誰が来ていないかを把握している。

そして、一人の先生がそのクラスをまとめていた。

僕はそこが妙に気になりました。

なぜ、55人を一人で見られたのか

「昔の先生は55人見ていたんだから、今の先生もできるはずだ」

という話をしたいわけではありません。

昔と今では、先生に求められているものも違います。

一人ひとりへの配慮。

保護者とのコミュニケーション。

不登校やいじめへの対応。

さまざまな事情を持った子どもへの支援。

昔より丁寧になった部分も、良くなった部分もたくさんあると思います。

それでも気になります。

なぜ昔は、それだけの人数を一つの集団としてまとめることができたのか。

単純に昔の先生の方が優秀だったのでしょうか。

もちろん、そういう先生もいたと思います。

でも、それだけではない気がします。

むしろ当時の先生たちは、

大人数をどうやって一つの集団として動かすか

ということを、今よりずっと身体で覚えていたのではないでしょうか。

そして、それを可能にしていたものの一つが、

「学校とは何か」が今よりわかりやすかったこと

だったのではないかと思います。

学校とは何をする場所なのか

義務教育である以上、学校はまず学ぶ場所です。

学ぶ場所だから、教える人がいる。

そして、教えてもらう人がいる。

でも、一人で学ぶわけではありません。

何十人もの人が同じ場所で一緒に学ぶ。

だったら当然、ルールが必要になります。

時間になったら席につく。

人が話しているときには聞く。

決められたことを守る。

自分だけ好き勝手に行動しない。

そして、ルールを守れなければ注意される。

学校は勉強を教えてもらうだけではなく、

集団の中でどう振る舞うのかを学ぶ場所でもあった

のだと思います。

先生は、その集団をまとめ、教える人。

生徒は、そこで学ぶ人。

家庭は、子どもがきちんと学ぼうとしているかを見る。

もちろん、現実はこんなに単純ではなかったでしょう。

それでも、少なくとも役割は今よりわかりやすかったのではないかと思います。

先生に「威厳」があったというより、

先生という役割が、組織の中ではっきりしていた。

だから生徒側も、

「先生を中心に、このクラスという集団で学ぶ」

ということを理解していたのかもしれません。

50人を超える集団を一人でまとめられた理由は、先生個人の能力だけではなく、

組織としての前提が共有されていたからではないか。

そんなことを考えました。

昔に戻せばいいわけではない

もちろん、昔のやり方をそのまま戻せばいいとは思いません。

大人数をまとめるために、恐怖や力によって秩序をつくっていた部分もあったはずです。

昔は見過ごされていた子どもの個性や事情もあるでしょう。

一人ひとりを見るという意味では、今の教育の方が進んでいる部分があります。

だから、

昔に戻ろう

という話ではありません。

ただ、

昔の問題のある手段を捨てることと、昔の仕組みが成立していた理由まで捨てることは別

だと思っています。

なぜ大人数でも回っていたのか。

なぜ先生一人でも集団として成立していたのか。

そこには、今でも使える考え方があるかもしれません。

引き算する前に、考えること

最近の学校を見ると、先生の負担を減らそうという流れがあります。

先生が担ってきた仕事を外に出す。

部活動のあり方を変える。

業務そのものを減らす。

働く時間を見直す。

もちろん、必要なことだと思います。

先生が疲弊してしまえば、教育そのものが続きません。

だから僕は、

引き算するな

と言いたいわけではありません。

ただ、一つだけ気になります。

何かが大変になったとき、

「では、何を減らそうか」

から考え始めていないでしょうか。

その前に、

そもそも学校とは何をする場所なのか。

先生とは何をする人なのか。

家庭は何を担うのか。

子どもはそこで何を学ぶのか。

一度ここを定義し直した方がいいのではないかと思います。

それが決まれば、

これは先生がやる。

これは家庭が担う。

これは外部に任せる。

これはやめる。

という判断ができる。

つまり、

引き算にも、基準が必要です。

逆のことを会社ではやっている

この話を考えていて、会社での商品開発のことを思い出しました。

Galaxiaでは今、「AI編集部」の機能アップデートを進めています。

サービスをより良くしようと思うと、いろいろな意見が出てきます。

こんな機能があった方がいい。

これもできた方が便利。

ここも自動化した方がいい。

こういうデータも見られた方がいい。

意見を聞けば聞くほど、サービスはどんどん大きくなっていきます。

学校では、負担が増えたから引こうとしている。

商品開発では、良くしたいから足そうとしている。

やっていることは正反対です。

でも、実は同じ問題なのかもしれません。

足し算も、引き算も、その前に

AI編集部で今考えなければいけないのは、

「次にどんな機能を追加するか」

ではありません。

もっと手前です。

そもそもAI編集部とは何なのか。

誰の、どんな問題を解決するものなのか。

一番価値を出さなければならないところはどこなのか。

ここを定義する。

それが決まれば、

この機能は絶対に必要。

これはあれば便利だけど、今はいらない。

むしろ、これは削った方がわかりやすい。

という判断ができます。

学校も同じなのだと思います。

先生が大変だから減らす。

子どもをもっと見たいから人を増やす。

新しい課題が出たからルールを増やす。

どれも間違いではありません。

でも、その前に、

「そもそもこれは何なのか」

を定義する。

何を目的とする組織なのか。

誰が何を担うのか。

何だけは絶対に残すのか。

ここが決まって初めて、何を足して、何を引くかを決められる。

会社も同じだと思う

これは商品だけではありません。

会社づくりでも同じです。

報告が足りないから、報告ルールを増やす。

ミスが多いから、チェック項目を増やす。

会議が多いから、会議をなくす。

これも全部、足し算か引き算です。

でも、その前に、

自分たちにとって報告とは何なのか。

管理職とは何をする人なのか。

仕事を任せるとは、どこまで任せることなのか。

ここを定義した方がいい。

定義が曖昧なまま何かを足しても、複雑になります。

逆に、定義が曖昧なまま何かを減らしても、必要なものまで失ってしまいます。

だから最近、

「シンプルにする」

ということの意味も少し変わってきました。

ただ減らせばシンプルになるわけではない。

何でも増やせば良くなるわけでもない。

大事なものが何なのかを明確にするから、いらないものがわかる。

それが本当の意味でのシンプルさなのかもしれません。

父の昔話から始まって、まさか商品開発のことまで考えるとは思いませんでした。

でも、55人の教室が一人の先生で動いていたという話には、今でも考える価値がある気がします。

良くしたいとき、何かを足す。

大変になったとき、何かを引く。

その前に、一度だけ、

「そもそも、これは何なのか」

を考えてみる。

足す前に。

引く前に。

まず、定義する。

定義することをもっと大切にしたいと思っています。

上杉 勇煕 CEO, GALAXIA KITAKYUSHU, JAPAN

BLOGでは、実際に社内で書かれた文章を、一部表現を整えて公開しています。

もともと社内向けに書かれたものだからこそ残っている、迷いや気づき、そのときの温度感。
前後の文脈が伝わりにくい部分も含めて、Galaxiaの日々としてお読みください。

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